上智大学特別講演会




主催 上智大学法科学院
日時 平成18年7月31日
於 上智大学10号館講堂



7月31日(月)に上智大学オープンキャンパスが開催され、羽生さんの特別講演会「決断力」が開催されました。
同日参加されたたいがーさんから、掲示板の皆さんへと写真を戴きました。
改めて、たいがーさんにお礼申し上げますm(_ _)m
当日のレポはたいがーさんのブログの7月31日をご覧下さいm(_ _)m


































上智大学特別講演会



主催 株式会社慶應学術事業会
日時 平成18年7月19日
於 丸ビル7階 丸ビルホール




夕学五十講『現代という時代』


「生き抜く力を磨く」将棋のスタイルを変える。生き方のチェンジ。読みから大局観へ。

「自己紹介」私は将棋の棋士です。普段は朝から一日が終わるまで将棋の対局をしています。今日は講演という事で、いつもとは勝手が違いますが、「対局の時考える事」を将棋とは違えた形で、皆さんに伝えていきたいと思います。

プロになって20年。最初は将棋が好きで、将棋だけに夢中になっていました。気がついたらプロになっていた。プロになる事も夢中の状態でした。ある時から専門家になった訳です。どういうところに魅力を感じたかお話ししたいと思います。

将棋の出来た課程は、インドのチャトランガというゲームが元です。戦争好きの王様がいて、実際の戦争以外に興味を持たせるために考案されたらしい。アジアの各国に、それぞれ一つの将棋(と起源を同じくするゲーム)があり、それぞれの国の歴史が色濃く反映されています。それぞれの将棋を比較すると、当然、同じ点、違う点がありますが、日本の将棋が際だって変わっています。

最大の違いは、駒の再利用です。これは他の将棋と大きく違う点です。捕虜の再活用ですね。大きく日本的だと思います。

ゲームだけでなく、色々なものが生き残っていくための法則があり、おもしろくないものは廃れます。長年の間にルール等大きく変化していますが、日本の将棋は特にユニークです。
普通の考え方では、ゲーム開始の駒の数を増やして面白さを増しますが、日本の将棋の場合は駒の数を減らしてきました。昔の(平安の頃)大将棋から順々に数が減って現代の将棋の駒数になりました。絶対数が少ないことが、駒の再利用に繋がっています。
これは大変日本的だと思います。「俳句」「短歌」では、全部を言わないで行間に滲ませる。可能な限り凝縮して表現する。それと同じです。その意味で「将棋」は大変「日本的」だと思います。

「将棋の家元制」将棋は江戸時代は家元制でした。
家元制という事は、「お茶・お華」と同じですが、「お茶・お華」と違って、将棋は勝負がつきます。今では「名人」はタイトルになって、実力でなりますが、名残のようなものが残っていて、タイトル戦等は和服・正座で対局し、また駒の並べ方にも「お茶・お華」のような作法が残っています。私は「大橋流」で並べます。
江戸時代は名人は頂点でしたから、やたらに対局して負ける訳にはいかないので、段々対局はしなくなり、代わりに将軍家に詰め将棋を献上する事が仕事になりました。
将軍家に献上するのですから、段々と詰め将棋の技術が発達して、芸術の域まで達した作品が多数生まれました。 ※ 三代伊藤宗看作「将棋無双」伊藤看寿作「将棋図巧」
将棋のルールの打ち歩詰めについて。歩で玉を取ってはいけないというルールがありますが、将棋はその時代の思想・考え方がルールに反映しています。この時代は封建時代ですから、一番下の歩(雑兵)が玉(大将)の首を取ってはいけないと考えた訳です。下克上はいけないと。このルールによって、詰め将棋は芸術的な作品が生まれました。打ち歩詰めを回避するために、不成や成り捨て等の技が考え出され、詰め将棋がより技巧を凝らした作品になったのです。
「将棋無双」と「将棋図巧」私は1日1題解いていました。

将棋は指している人々の人間模様。人間と人間。将棋を通しての人と人の勝負。


「ここ25〜30年の将棋界」今は情報化の時代です。今までは将棋は、勝負・格闘技でした。時代の変化とともに、将棋を学術的・体系的に考えるようになって、最近の流れというか、アプローチの仕方が変化してきました。今はPCで調べます。

升田先生の時代。昭和20〜30年代に活躍されたのですが、PCで見られるようになって、驚異的な棋譜を残されていた事が分かりました。時代を先取りした棋風。
当時は定跡が重視されていましたが、升田先生は小さな流れではなく、大きく局面を捉えて考えていました。
現代風のスピードの観念を持っておられた。今の時代でも遜色のない、一歩も二歩も先を行く考えをしておられたと思います。
当時は周りの人も気がつかなかった。升田先生のキャラクターに焦点が集まった為に、先生の持っている技術・戦術が正当に評価されていない気がします。

大山先生とは、10局程対局しました。
1対1で対峙する対局。相手よりいい手を指そうと考えるのは当然ですが、大山先生は考えてはいないと感じました。相手がなにを考えているかを考えていると。心理的な表面が技術よりも素晴らしい。
これは棋譜だけでは分かりません。
私は、実際に対局したので、相手(大山先生)に観察されていると感じました。
大山先生は、戦局をいちいち悲観しません。相手はミスをすると考えて、自然体で臨まれていました。

15年前は相手を調べるにもコピーの時代ですから、沢山の時間をかけて対局に臨んでいました。その頃はそれでもリード出来ました。今はPCで簡単に棋譜が手に入る。随分変わったと実感しています。
昔は、事前に調べて対局に臨むのは評価されませんでした。研究で調べられるのは序盤です。研究をはなれたところから力を発揮する事が評価されていました。
研究では全部を解明する事は出来ません。しかし、全部を理解する事は出来なくても、一部なら分かります。

例えば、世界地図をを描く事は大変ですが、町内の地図を作る事は割に簡単に出来ます。
一局全部の理解は出来なくても、ある局面で「その別れはよい」と研究出来ます。
今の将棋界の流行は、一つの戦法を徹底して研究する事です。
昔は、作戦はほとんど決めていませんでした。昔はそれでもよかったのですが、今は必要です。対局前の準備期間が大切になっています。自分なりにデータを分析して対策を考える事が必要です。
なぜそうなったか?塵も積もれば山になります。地図も、町内図が出来たら、そこから拡大して行く。大きな地図が出来ます。
現代は、情報があっという間に広まります。いい作戦がすぐに研究、対策を立てられてしまいます。

新手一生。升田先生の言葉ですが、今は新手一回。再度使う為には、さらに上回る対策を考えないといけません。なにか新しい方法を考えるより、対策を考えるほうが時間がかからない。より簡単な方になっている。
その中で新しい事を始めるという事は大変です。報われない部分もありますが、プロの世界ですから、同じ事をやっていてはいけない。研究と直感。バランスが大事です。

「最近の傾向」昔は、赤から赤。一色でした。今は拡散的に進歩しています。
入り口を増やして、増やした入り口を掘り下げる。広く深くです。
全部をフォロー出来ない為、沢山の選択がある場合、基本的なものを押さえて、感で1部を選ぶ。全部を選択する事は不可能ですから、自分の好み、感で大雑把に選択する事になります。間違う事もあります。その時は躊躇わず修正すればいいのです。

「将棋のプロ」将棋のプロは現在150名程です。
プロとアマチュアの差が大きいものは、相撲と将棋と言われていましたが、最近縮まっています。
これはインターネットと密接に関係しています。将棋の場合、技術と情報をレベル維持の為に囲い込んでいましたが、ネット世界は囲い込めていません。
棋譜はじめ、様々な情報がネットには流れ、誰でも取り込む事が出来ます。
今までプロでしか手に入れられなかった情報が、簡単に手に入れられ、研究も出来ます。プロと同等のアマチュアが出てくる。悪い事ではないと思います。
今までのアマチュアは情報がなくて力が伸び止まっていましたが、プロの情報で力が上がるのなら、共に成長する事はよい事と思います。

「瀬川四段」彼は環境が生んだプロです。
プロ棋士のハードルは高いです。奨励会は年齢で区切られています。もしプロになれなかった場合に、他の職業に就きやすいように年齢制限があります。
将棋のプロになるには若いときからの方がよいのですが、常に例外があります。
瀬川四段のように、アマチュアの世界からプロへの道を作れたのはよい事と思います。
アマ→プロ 望ましい形。今という時代の情報化が、大きく関係しています。
環境による差が生じなくなって来たのです。地域というものも(ネット上は地域格差がありません)意味がなくなってきました。傾向としては良いと思っています。

問題点もあります。ネット高速道路論というものがあります。
今までは一般道路でした。信号や渋滞が生じます。高速道路が出来て、高速で走れるようになりました。
低年齢化。相対疲労感。
高速道路は高速で沢山の車輌が走るから渋滞を起こす。
もの凄いスピード→渋滞→進めない
渋滞を起こしたとき、一般道路の方が良いのかもしれません。一般道路は脇の道も選択出来ますが、高速道路では選ぶ事が出来ません。

将棋もそうです。渋滞を起こした時、まったく違うアプローチ(一昔前の力と力)で行かないと渋滞を抜けられません。元の状態に戻っています。未知の部分の比重が大きくなっています。私は、新手は取っておきません。すぐに使います。

「対局の時に考える事」よく「何手くらい読むのですか」と質問されます。
基本的には、読みと大局観です。
読みとは、手を絞る事。将棋の指し手は80通りあります。全部は読む事は出来ません。直感で、カメラのフォーカスを絞るような感じで、指し手を絞って行き、3手程度を深く読みますが、3手の10手先は膨大な変化になってしまい、全部読む事は出来ません。
大雑把に読んで一手を選んでいるのです。五里霧中の中で考えているようなものです。
大局観とは、羅針盤です。方針。方向性です。攻・守の待ちの方針。

20代では「読み」の比重が大きかった。可能な限り読む。 段々と「大局観」で見るようになって来ました。

終わりの局面を決めてしまう。それに向かって行く手順を考える。最初からの流れを見て考え、時には相手の側からも見る。一つの局面で考える。1時間考えても分からない事もある。そんな時はスタートに戻って、直感を信じる事にしています。
直感とは、それまで自分自身が経験して積み上げてきたもの。まったくないなかから出てきたものではない。自分の経験の凝縮。直感は軽視は出来ないと思います。
1時間も2時間も考えているのは、迷っているから。怖がっているから。躊躇い、不安、恐れ。最後の決断が出来ない状態になっている。直感はそれ以前の状態。
ですから直感を信じるのです。

プロに成り立ての頃は、怖いもの知らずでした。危ない橋でも渡ってしまう。勢いで渡って上手く行くのです。それが経験を積むと、そこそこ平均点のやり方を覚えてしまい、未知の点に踏み込めなくなってしまいます。意識して危ないところへは行かない。安全な方へ行きたがるようになります。

今の将棋界は、異端・異筋が流行っています。昔は、王道・本格が進むべき道とされ、かけ離れたものは排除されました。今は情報化の時代。上手く行くなら良いとされています。
知識が役に立たない時代になっています。
知識とは、知っている道みたいなものです。楽・安全・簡単です。しかし、5年後、10年後はダメです。机上の理解ではダメです。実践でやってみなくては、本当には理解できません。
新しい考えは、リスクが高くても挑戦してみる事が大事です。どこまで踏み込むか?
全部ではないがやってみる。最初は負けるかもしれませんが、少しずつ少しずつ進歩していく事が大事です。
日進月歩。渋滞のところまで辿り着く。理解し、繰り返す事が大事です。同じ事の繰り返しは、進歩がないように見えますが、繰り返す事で理解、発見があります。
ある時、突然全部が一つに繋がる。それが進歩です。新しい作戦は、最初は怖いですが、少しずつ理解して進歩していきたいです。

「好調・不調」好調・不調といいますが「三年続けば実力」と言います。
言われないようにしたいのですが、バイオリズム感はあります。
自分でコントロール出来るものではないので、それに合わせるしかないと思っています。
「つき」とか「運」とか考えると楽しいものです。実力を上げていけば、悪い流れが来ても調子を上げていけると思っています。
なかなか自分の中で見つける事は出来ませんが、相手の中に見つける事が出来ます。好調の相手からは、良いものが貰えると考えています。自分の力を引き出して貰えると。
対局の時、お互いが黙っていますが、相手がなにを考えているか分かるようになります。
「棋は対話なり」です。盤上で話をしているのです。
対局している二人にしか分からない世界。出来れば将棋ファンの人に伝えていきたいです。

「プレッシャー」プレッシャーについてよく聞かれます。対局しているときは、常に感じています。
プレッシャーがかかるという事は、自分の器が達していないという事です。
例えば、走り高跳びの選手で、1m50p を飛べる選手は、その高さにプレッシャーを感じませんが、飛べない選手は感じます。乗り越えられないからプレッシャーがかかるのです。

対局の開始には、心を静めて向かいますが、平静の状態の維持は難しいです。前向きな気持ちで向かいたいとは思っています。
「切れる」という言葉がありますが、よく分かります。自分も対局していて切れる事があります。たいがい負けている時です。「切れる」時は切れた方が良いと思っています。無理矢理緊張を維持していても、次に続きません。極力すぐ忘れるようにしています。勝っても、負けても、すぐに忘れます。

今という時代は、変化と先の見えない不透明な時代です。そんな時代に「楽しさ」を沢山見つけて行きたいと思います。








撮影 たいがーさん
文責 茶々丸
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